心が痛む言葉をもらった時の私の対応法


"みきちゃんが言わせてるんじゃないの?"
グサリと槍投げの槍が突き刺さって、帰路、車の運転をしながら、どうしてこのセリフを相手に言わせたのかを探求した。私には歯に絹着せずにそのまま表現してくれる有難い仲間がいる。そして、その仲間を通して私は多くのことに気づくことができた週末となった。
土曜日、朝から左親指のあかぎれが痛む。
またあかぎれかぁ。しかも同じようなのがいくつか指にあるのに、痛みは左の親指のみ。爪が巻き込んでるのか、爪の端から皮膚が裂けている。左(女性性、受容)かぁ。爪(防御、保護)、親指(知性、知能、他者へのコントロール)と思いながら、考えてみるが、明確なこたえはみつからない。こんな時は、自分の潜在意識に問いかけておく。
土曜日、新しいフィールドに引っ越す友がいて、その家に遊びに行く。総勢大人8人 子供4人。家や畑、近所を散歩したり、私はそのうちの1人と3時間のワークをしていた。
子供たちはとにかく元気。遊ぶ時間をフルに使いたいようで、いろんな大人が巻き込まれていく。ちびっ子3人がかりで飛びついてくるから、すぐに倒される。そして,手足を1人ずつに弄ばれ(4の字固めとかされていた)、ガリバーのようになされるがままになるしかない。そして、その様子は、側から見ていて微笑ましい。⁡
かくれんぼを強制的に参加させれたり、羽子板に誘われたりと、とにかく目一杯の可愛さを活かして大人を"うんいいよ"と言わせるのがうまいのだ。だが,参加すると"これはエンドレスに続くんじゃないか"と思えるほど、結構長く続く。
そして、突然言う。"うんち出た💩"。おしめしていない。パンツで遊ぶお年頃なのに、トイレに行くのを惜しんだのか、パンツの中でうんこした子が2人も出た。えーっ!って私は思ったけれど、母ちゃんや父ちゃん達は、"出ちゃったかぁ笑"くらいの軽い感じで、子供たちと笑いながら"じゃあパンツ履き替えよう"と、やるべきことをいつも通りにしてるだけなんだろう。そんな様子に、子供のいない私は、対応力の広さに感心してしまう。
そんな土曜日を過ごしながら、日曜日に冒頭の言葉をもらうことになった。グサリと刺さった言葉は、少しの動揺と、心に痛みを覚えた。というのも、まさに的を射た返しだなと思ったからだ。そして、私はその件について話すのを緩やかに止めた。
心が痛む言葉をもらった時に取れる行動はいくつかある。そのことについて相手とそのまま議論したり、距離を置いたり、もう付き合わない選択や、その一方で、関係性を維持するために自分の感情に蓋をして無かったことにすることもできるし、感情を抑えて我慢することもできる。私自身が取るのは、すべての出来事には自分にとって肯定的な意図があるという前提と、今回の対人関係の場合は、関係性をより発展的に維持する前提で、そのやり取りについて自分が何を知り、どんな行動にうつすことができたら、次回は今までよりも、もっとより良い関係を作れるかを考えることを選択した。もちろんすぐにそんなふうには考えられない。その間に1つクッションが必要だ。なぜなら、怒りや痛み、悲しみなど、一件ネガティブに思える感情は、その感情を引き出すまでのプログラム自体は判断を誤っている可能性があるけれども、感情を感じることは自分の権利であると認識し、蓋をせず,十分に味わい尽くして、思考が未来に向くのを待つという流れを経ることにしている。(悲しみや、怒り,痛みなどは大抵の場合、思考が過去に向いていることが多い)なぜなら,その痛みを感じている間は、思考は過去に向いているか止まっているので、あまり喋らなくなる。そして,感情を味わい尽くした後、ようやく腰が上がる。そして、一連のやり取りの中に悪意はなかったかなどの検索をして、今後相手とどのような関係でいたいのかを自分に問い、振り返りをする。
このやり取りの前に少し突き放されたようなやりとりがあったことを思い出す。突き放された!と思った言葉の裏側には、受け止めてほしいという想いがあったことに気づく。あー。それだ。私に必要なのは。
相手は自分の鏡なんだ。なぜなら,突き放された言葉をもらう前に、私が突き放す言葉を先に放っていたということを思い出した。"そっか。そう言うことなんだね"と、話された内容に共感はできなくても、受け止める言葉が抜けたまま、協働作業のゴールにだけ焦点を当てて話していたことに気づく。相手の思いや伝えたい意図を慮ることなく、一蹴してしまっていたのだ。少し時間を割いて、具体的に何を伝えたかったのかを聞いて確かめたらよかった。(セッションの時はすかさず確認するのに、環境と自分のステートが違うと、こうも相手の思いをないがしろにしてしまっていた自分に気付く。きっといろんな市0んで他の人たちにもやってきてしまってたのかもと、気付かせて貰えて本当に有難く感じた)
そして、"みきちゃんがそう言わせてるんじゃないの?"と核心をついた言葉をもらうことに至った。
新たに出てきた"受け止める"課題について考えると、意外なことにすぐ直前に答えが出ていたことに気づいた。土曜日の子供たちと共に遊ぶ大人たち、うんちのお漏らしに対応する父ちゃん母ちゃんたちの対応。
うんちを漏らすことを良しとはしていないけれど、おおらかな態度で対応していた。"出ちゃったのね〜(事実)笑"だ。事実をそのまま評価せずに受け止め、粛々とすべきことをする。すばらしいモデルだなと思った。
そして、重要な言葉をもう一つもらっていた。
講座中のワークをしている中で、師匠と人格の着せかえについてヒントをもらっていたことに気づく。
講座をしている時の人格、親である時の人格など、人にはそれぞれいくつかの人格を持っていると言う話を聞いていた。
これは、心理学の師匠からも人格の着せ替えについて教えてもらったことがある。
私も,コーチとしての人格、仲間と共に学ぶものとしての人格、ミキチャレ中の人格、人を招いているときの人格、娘としての人格、パートナーとしての人格などいくつもの人格を持ってはいるものの、要素をきっちりと整えてなかったことに気づく。
これも新たな設定をしよう。各人格の構造をセットして、モデルを探し、知覚神経に落とし込んでいこうと決めた。何回か訓練が必要なので、日々の日課に入れた。
ちょうど、ワークの中で、友と美しさについて話していたことを思い出す。この歳になって外側と内側は繋がっていることを実感できるようになった。若いうちは外側にばかり目がいって、中身があまり詰まってなかったなぁと。そして、中年世代を経て、自分の自由さが増して思うことは、内側にある自分を成長させることが、外側に自然と現れてくるのではないかと、周りにいる友を見て改めて感じ,私にとっては悪習慣と思えるある一つのことをやめる決断をした。
⁡そして、あかぎれの答えはすべてここにつながるんだなと思った週末。
いつからでも新しい未来は今この瞬間から始まる。すごい週末だった。共に過ごしてくれた歯に絹着せぬ発言をしてくれる仲間達に感謝。ありがとう。
#自然の恵みに感謝して心地よい暮らし
#心が平和に生きる

#どのような前提で生きるかは決めることができる

#対人関係

ココロのメガネ屋 トランスフォーメショナルコーチ 松下並樹(まつしたみき)

自分で自分をケアできる時代を目指す。 ココロのメガネ屋はセルフケアを目指す人のサポートを行っています。

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